60過ぎて、アスリート気取り~Like an Athlete after 60

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よく動けば、老後もすこやかに暮らせるか!? そんな試みを楽しむ日々を綴ります~~The fitness journey of a Tokyo woman in her 60's

フリーにはたらく~What It Means for Me to Work on a Freelance Basis

HatenaBlogの特別お題キャンペーンのテーマは「#フリーにはたらく」。

 

社会人になってから、正社員、派遣社員契約社員も経験しながらだが、30年余りの年月をフリーにはたらいてきて、今もフリーにはたらいている私。この機会に、過去形と現在進行形でこのテーマを語ってみたい。

 

35年前の20代半ば、まだ世の中にも「英語を武器に仕事をする」という考え方があった。子供の頃抱いていた欧米への憧れの延長にある「英語で糧を得たい」という思いが私の仕事人生の出発点であり、軸となってきたように思う。当初は、通訳の仕事をしたかったが、いかんせん、早くに妊娠したため、仕事に明け暮れる夫と両方の故郷が遠くて両親からの日常の支援は難しいという環境から、自宅でもでき、子育てと両立できると考えた翻訳の仕事にターゲットを絞った。

 

バブルの音が聞こえ始めた東京……翻訳者のひよっことすら呼べない実力の私でも新聞広告で翻訳の仕事を得ることができた。当時はもちろんPCもワープロすらもない時代。手書きの納品物を郵送でクライアントに送ったものだ。しかし、実力を伴わない仕事には壁がやってくる。東南アジア出身の実習生に向けた土木関係のテキストを英語に訳すという仕事で、原語の日本語すら意味が理解できないという経験をした。このままでは長く仕事を続けることはできないだろうという反省から、当時まだ2,3校しかなかった翻訳学校の門をたたくことにした。

 

翻訳学校といってもまだ子供たちが小さいためもちろん通信教育。大学の専攻が英米文学で他の専門知識がないので、文芸翻訳に狙いを定める。そして、この通信教育で素晴らしい恩師と先輩方に出会う。通信教育が終わった後も、実費だけの翻訳の勉強会に参加させてもらい、毎月『The New Yorker』に掲載された短篇の翻訳を勉強させてもらったのだ。セミプロレベルの集まりで、私だけが極端に下のレベル。ハードルは高くてしり込みしたかったが、実力をつけるには食らいつくしかなかった。まだ30代の初め。小説を読んでも、ストーリーを楽しむというよりは言葉やフレーズに目がいった。何を読んでも知らない言葉に出くわすと敏感になったものだ。その後、このグループのありがたいご縁から、36歳の時に1冊目、合計で4冊のロマンスノベルを翻訳させてもらえるという幸運に恵まれた。今翻訳の仕事ができるのも、この時の勉強と経験のおかげだ。

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とはいうものの、人生にはお金がかかる。第2子が小学校に上がると、私は定収入を求めて、外で働くことを選択した。自転車で通える近距離の小さな会社で、通信ソフトのマニュアル翻訳を主にしたパートを始める。とてもラッキーなことに、インターネットが世の中に出始めた頃で、自宅では(今では考えられないだろうが)時間に応じて課金される環境の中、職場では時間を気にすることなくインターネットを使えた。国際特許出願関係の仕事も兼任していたので、リアルタイムに欧米の会社とメールでやり取りするという快感も体験させてもらった。

 

その後、翻訳力を高めたい一心で、パートからメーカーでの派遣社員、翻訳会社での正社員へと転職する。小さな翻訳会社では、とにかく分野を問わず量をこなした。あるクライアントの案件では特急翻訳といって、受注してから24時間以内に成果物を納品するという仕事があり、その責任者になってからは会社で朝を迎えて、始発電車で自宅に戻り家族の朝食と子供たちのお弁当とその日の夕食を作り、また出社なんてこともあった。若いからできたことだ。

 

その後、座り過ぎたためか腰痛を発症して翻訳会社を退職し、自宅で翻訳をしながら、自分でも思いも寄らなかった方向に進むことになる。

 

退職後に利用できる教育訓練給付金を利用して通訳ガイドの学校に行くことにしたのだ。京都で学生生活を送ったとき、同じアパートに住む帰国子女の先輩が卒業後は企業に就職せずに通訳ガイドの仕事をしていた記憶が蘇り、私の背中を押した。自宅で翻訳の仕事をしながら、通訳ガイドの国家試験合格を目指しての勉強が始まる。久しぶりの勉強はとても新鮮だった。学ぶことの楽しさ、ありがたさを改めて知った。しかし現実は甘くない。1年に1回しかないこの試験に私は2度落ちる。2度目の夏、翻訳の仕事を減らして受験勉強に勤しんだ。この夏はとにかく暑かった。同じく1年に1回しかない公認会計士の国家試験に挑戦する大学3年生の息子と一緒に、暑さと睡魔と闘いながらそれぞれの机に向かったものだ。そして、秋……息子は見事1回で合格。その少し後にあったガイド試験の発表……息子が代わりに結果を見に行ってくれた。母の2度目の残念な結果を知った息子が買ってきてくれたビアードパパのシュークリーム。甘いけれど苦い味のシュークリーム......。

 

通訳ガイドになる目的は、ライセンスを取得することではなく、英語で稼ぐことだったから、仕事を減らしてこれ以上勉強を続けるのは不本意だった。この時、雇用してもらえるなら最後のチャンスだと思えた47歳。思い切って外で仕事をしようと思い立つ。そして国際関係の団体で契約社員として翻訳関連の仕事を得る。久しぶりの常勤の仕事に燃えながらも、細々とガイドの勉強を続けたら、なんとその年に3度目の正直で合格。常勤の仕事の契約を終えてから、フリーランサーとして通訳ガイドの仕事を始めたのが、2010年。ぴったり50歳。最初の仕事は横浜APECバイリンガルスタッフの仕事。1週間ほど桜木町に泊まり込んでの興味深い仕事だった。その後も登録したエージェントから仕事が舞い込むようになったときに東日本大震災で、日本から欧米人が消え、仕事も消えてしまう。このピンチを経験しながらも、私はガイドの仕事の面白さに目覚めていく。

 

ガイドの仕事をメインにしてからは、スルーガイドやクルーズ船の仕事の過酷な経験から都内限定の泊まりなしという戦略で、とにかく徹底して下見をして、経験を積ませてもらった。東京オリンピックパラリンピック開催も決まり、円安と日本政府によるビジットキャンペーンやビザ申請手続き緩和などの後押しもあって、インバウンド業界は大盛況で手を挙げれば仕事はあった。

 

そして、2度目のピンチがやってくる。都内なら前夜に睡眠を削って予習しなくても、やっと、当日の9時前に待ち合わせのホテルに行けばOKとなってきたと思ったら、新型コロナウイルスアウトブレイク。私が最後にガイドの仕事をしたのは2020年3月19日。お客様はUKからの素敵なご夫婦だった。彼らはUKの外務省が海外への渡航を禁止する直前にヒースローから飛び立ち成田に着いたものの、予定を変更して3日ばかりの滞在で帰国することになる。その後のパンデミックの状況は記憶に新しいが、幸い、ガイドをしながらも少量ながら続けてきた翻訳がこの2年の私の仕事となった。ガイドの仕事は、来年の春以降のアサインも残っているがコロナの状況によっては変わってくるだろう。さて、もう一度ガイドとしてお客様と一緒に過ごす時間をもてるのだろうか?

 

こうして、振り返ると、自分の人生の立ち位置によって、英語で働くという軸だけは守りながら、まさにフリーにはたらかせてもらってきた。自由に仕事をするということは、私のように子育てとの両立には大変ありがたいものの、厳しい側面も伴う。一度でも低品質のものを提出したり、時には担当のコーディネーターが変わるだけで仕事が来なくなることもあった。ガイドのエージェントのWEBサイトにはお客様からの直接のフィードバックが掲載される。1回1回が真剣勝負で、緊張の連続。まさに挑戦の日々だった。もちろんボーナスとは無縁。しかし、翻訳も通訳ガイドも自分が望んで選択した仕事。PCに向き合って悶々とした後まさにこれだという訳語が浮かんできたとき、日本の伝統文化や最新のテクノロジーに目を輝かせ、和食に舌包みを打つお客様の横顔をそっと見るとき、私はこの上なく幸せだ。さまざまな方との出会いとご縁に恵まれたこと、常にそばで応援してくれた家族とその健康に心より感謝したい。

 

そして、これからも、もう少し「フリーにはたらく」ことを続けたい。「フリーにはたらくこと」は私の人生の中で挑戦そのもので、今の私を創ってくれていると思うから。ただし、還暦を過ぎた今、私の家族の中での立ち位置も体力も変わりつつある。今までのように睡眠不足で仕事をすることはやめようと思う。挑戦する対象を仕事から健康管理へと少しずつシフトしていきたい。このブログのテーマでもある「心身ともに元気で、死ぬ瞬間まで自分の足で歩く」ことに挑戦し続けたい。